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2008/06/14

公人の名誉権vsマス・メディアの表現の自由

 読売新聞のドン・ナベツネ氏が今年の同社入社式で「新聞記者で言えば、捏造、誤報等は一番いけないことであって、他人の名誉を、いたずらに著しく傷つけるということは許されることではない」と訓示している(『世界』2008年7月号 前澤猛 「渡邉恒雄氏の社論確立」再考 より)が、マス・メディアにとっては名誉毀損リスクが大きな関心事であるようだ。
 ところで、現役の新聞記者である山田隆司氏の著作『公人とマス・メディア』を読み終えた。公人の名誉権の保護とマス・メディアの表現の自由、国民の知る権利との関係や調整について明快に考察された読み応えのある論文だった。
 結論からいえば、米連邦最高裁判例によって採用されている現実的悪意の法理を日本の判例法理に導入し、マス・メディアの公人報道を萎縮させない方向に導くことに賛意を覚えた。また、現実的悪意の法理の導入を条件として公人の損害賠償額の高額化は認めてしかるべきだと思った。
 話は飛躍するが、名誉を保護したい公人にとって、時間もコストもかかり名誉回復効果も小さい裁判に、そもそも臨むこと自体が有益なのかという気がする。法治国家の体裁をとっているが物騒なところでは、目障りなジャーナリストが抹殺の標的となることはあるし、そこまではないところでも取材制限や広告出稿引き上げなどの嫌がらせで干し上げる方がはるかに萎縮を強いると思われる。権力を持つ人物には法廷外での制裁手段もあるわけだ。
 一方において、まったくいわれのない報道(それこそ現実的悪意による)で貶められた公人には、法的保護の道はやはり必要だ。名誉毀損による被害が休業につながったとなれば、その補償の意味合いを考慮して、相当高額の賠償額の請求については肯ける。訴訟を起こすにしても予想される成功報酬が高くなければ弁護士への出費もままならない。
 山田論文の論考対象にはないが、今後、以下の点はどうあるべきか。考えなければならないだろう。ひとつは、報道する側も公人といえないかという点。署名記事が増えてきたが、ジャーナリスト個人の人格・資質が追及される恐れはある。もう一つは、マスでないメディアの範囲だ。それこそ情報発信する個人を特定できないことのあるネットのメディアの場合、ネットサービス事業者やプロバイダー・回線事業者といったコンテンツの流通段階の責任あたりをどう調整するかも問題になってくる。

※冒頭の出典にあげた『世界』(2008年7月号)では、横田一氏による直撃ルポ「宮崎に本当に必要な道路って何ですか? 東国原知事に訊く」は収穫だったので、付記しておく。宮崎県民の声を聞いてみたい。なお、横田氏は、以下を提案している。(1)高速道路建設より国道拡幅優先に転換、(2)新直轄道路の予算で高千穂鉄道復旧予算を捻出、(3)(天然記念物のアカウミガメの産卵場所で知られる赤江浜など)「脱・コンクリート宣言」で環境に優しい工法に転換。

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